■江戸時代考■2021/07/25
■江戸時代考■2021/07/25
【江戸時代で考えた巨大な大名屋敷は存在したのか】
今回もNKさん動画で採り上げられていた画像について考察してみました。
この絵も写真を基にしたのであれば、設置した写真機の位置は道路より上、つまり向かいの2軒の屋敷と同じ位の高さから撮影している。これ位高い石垣の屋敷3軒揃った場所はある程度絞り込めます。
また、絵の「右側屋敷と手前道路」をよく見ていただけると若干右上がりになっているのが判ると思います。つまり「上り坂」なんです。
坂を下った低地は石垣を高く、坂を上った高地は石垣を低く積んでいます。屋敷を建築する際、敷地を水平にするための処置です。敷地面積を更に広くする為には、低地箇所の石垣はより高く設置することになります。絵は下り坂の一番低い場所にクローズアップされている。左側屋敷も絵外左に歩を進めると上り坂になっていったはず。
以上の事から、私が特定した場所は「紀尾井坂」です。
江戸城外堀に面した江戸城防衛の重要な場所で、紀州徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」の一字ずつを取って呼ばれました。この絵右外に弁慶堀があり「喰違見附」がある。周辺には赤坂御門、四谷御門。
・絵の左の屋敷が「紀州徳川家」(屋根に葵紋鬼瓦)
・絵の右の屋敷が「彦根藩井伊家」
・撮影した屋敷が「尾張徳川家」(現在の上智大学)
幕末の尾張徳川家といえば「徳川慶勝」。安政5年(1858)日米修好通商条約調印に反対し井伊直弼に抗議。勝手に登城した罪で隠居謹慎を命じられる。この頃、欧米から伝来した写真術に興味を持ち色んな物を撮影。謹慎場所である戸山下屋敷内の写真が今も残っている。
該当の絵は紀尾井坂中屋敷からの写真で慶勝本人による撮影と思われる。アンベールの絵の中には、他にも江戸城内の様子や鎧甲冑姿の侍など慶勝しか撮影できない写真が含まれている。では何故慶勝の撮影した写真がアンベールの手に渡ったのか。
スイスと徳川幕府の条約交渉を進めるため特命全権公使で来日したアンベールは10ヶ月過ぎても失敗続きでした。その中で欧米文化に理解のある慶勝にも接触したと考えています。慶勝から撮影した写真についてスイス人目線の感想を訊かれ正直に答えたアンベールに写真数枚寄贈したのではないか。
参考動画:
【江戸藩邸を見てみたい】紀尾井町の大名屋敷の痕跡を巡る
■瓜生島伝説考■2021/07/19
■瓜生島伝説考■2021/07/19
【瓜生島伝説で考えた別府湾地震の被災規模】
九州大分の別府湾にかつて一夜にして沈んだ「瓜生島」の伝説がある。
「瓜生島とじぞうさま」というタイトルで某アニメ日本昔話が放送された。
島の蛭子神社にあったエビス像の顔が赤くなると島が沈むという伝承があり、それを信じなかった不心得者がエビス像を赤く塗ったことにより、島が沈んだという話。
だが本当に伝説なのか。
島の住人が信じたという「島が沈む」伝承について考察してみました。
・歴史文献より
1596年9月4日、別府湾で発生した慶長豊後地震(709人没)によって、海外にまで知られた港町「沖の浜」が消滅したのは事実。
大友宗麟は南蛮貿易で巨万の富を築いていた。日本最大級の国際海港都市が「沖の浜」でありポルトガルや明の外交文献にもその地名が残っている。フロイスの『日本史』に付近在住の信者から聞いた話として、家々が津波に流されたこと、年貢を徴収する秀吉の船団が全滅したこと、津波が大野川を遡ったことなどの記載がある。
・科学調査より
1977年、音波探査で海底調査をしたところ、ある乱れた場所があり、その一帯で大規模な地すべりの跡と断層を確認。
1981年、多くの断層群があることが判明。
1985年、約500~400年前に動いた断層を発見。
1990年、不自然な砂の堆積層を発見。
現地調査で大分市中心部の大分県庁付近で津波高5.1m、浸水深2mの津波があったことも確認。
・これらの調査から、大分川河口付近の海に突き出た島状の砂州が、地震による液状化で地滑りを起こし、その後の波による浸食によって完全に消滅したという説が有力になりました。
別府湾は、ここを境にして九州が北と南に引き裂かれる運動にともなって、地盤が沈んだためにできた湾である。一番深いところは高崎山の沖で約70mの深さなのだが、それは大分川や大野川などが運び込んだ土砂が埋まっているからで、今の海底よりずっと下の方に硬い岩盤がある。土砂を除くと別府湾の海底は4000mを超えている。
この別府湾で再び大きな地震や津波が発生した場合、湾岸の一部が海底に沈み、湾そのものが大きく変貌する危険を常に想定すべきである。
「島が沈む」伝承が残った背景に、「島が沈む」光景を実際に目にした人が居たのではないかと考えている。別府湾では過去大きな地震や津波を何度も記録している。その度に海底へ地滑りを起こし土地や島が沈んでいった可能性も否定できない。つまり「沖の浜」消滅以前に「瓜生島」も実在し消滅したのではないだろうか。
話は飛ぶが、古事記の国生み神話では「四国→隠岐島→九州→壱岐島→対馬島」の順に記載されている。この順に疑問の声があがる。古事記の「隠岐島」は四国と九州の間に存在していた島なのではないかと。別府湾に存在したとされる「瓜生島」ならその範囲内と言える。そんな想像を膨らませてみたが海の底なので確かめようがない。残念。
■江戸時代考■2021/07/12
■江戸時代考■2021/07/12
【江戸時代で考えた外国人から見た不思議な日本】
前々回の記事、幕末日本図絵の動画元NKさんから
またまた面白い画像を紹介されていたので考察してみます。
この絵は『全世界の人々の宗教儀式および慣習』(1729年刊)の中の1枚。
絵の作者は
Bernard Picart
ベルナール・ピカール
1673-1733。フランス人。製図技師、彫刻家、挿絵家。
欧州から離れたことはないがアムステルダムやアントワープ在住経験あり。
描かれている人物などを観察してみると、
・清朝役人が着用する帽子「凉帽」を着けた人が沢山居る。
・明朝役人が着用する帽子「烏紗帽」を着けた人が数人居る。
・道教道士が着用する帽子「道帽(純陽巾)」を着けた人が1人居る。
・帽子を着けていない人は「辮髪(べんぱつ)」にしている。
・煙を立てて何かを燃やしている。
・日本の仏像にしては見かけない様式のものが多い。
以上の事から推理すると、
◇場所は、中国内のチベット仏教寺院。
◇時代は、満洲人が中国を制圧(1644年)した直後。
◇具体的な時期は、敵味方の区別をするため漢人にも「薙髪令」発令している最中。
◇清朝役人が多いのは、漢人を強制的に集めて抵抗する者を処罰するため。
◇燃やしているものは、剃り落とした髪の毛。
つまり絵のタイトルには「JAPON」と記載されているが実際は中国寺院の絵。
日本に行ったことのないピカールが、東アジアの貿易商に騙され「間違った日本資料」を購入させられ、そのまま挿絵として使ってしまったのではないだろうか。
時代背景として、
当時日本は江戸時代初期。鎖国中なので外国人は日本国内を自由に動けない。
情報源は長崎出島の風景と、そこに集まる日本の書籍や絵図しかない。
江戸時代初期の絵画といえば狩野派が有名ですが簡単に入手できそうにない。
逆に外国文化を得ようと出島では「長崎派」なる絵師が居たようです。
中国明や清の画家も渡来してきており画風も和中洋と混在していた。
マルコポーロに「黄金の国ジパング」を紹介されて以来、欧州から最も遠い極東日本の情報は需要も高く「JAPON」と表した書物は飛ぶように売れたのではないでしょうか。
つまり「中国」の風景画を「日本」と意図的に変えた可能性もあります。
ココでもう1枚の絵を紹介。
この絵は『東インド会社遣日使節紀行』(1669年刊)の中の1枚。
本の作者は
Arnoldus Montanus
アルノルドゥス・モンタヌス
1625-1683。オランダ人。宣教師、歴史学者。
彼もまた来日経験は無く、欧州から離れたことはない。
描かれている人物などを観察し比較してみると、
・清朝役人が着用する帽子「凉帽」を着けた人が沢山居る。(ほぼ同じ)
・「烏紗帽」「道帽」を着けた人が消え、二本差しの侍が描かれている。(はっきり違う)
・「辮髪」の人物が日本の「髷」らしき髪型になっている。(はっきり違う)
・煙を立てて何かを燃やしている。(ほぼ同じ)
・日本の仏像にしては見かけない様式のものが多い。(ほぼ同じ)
以上の事から推理すると、
◇モンタヌスもピカールと同じ資料を入手していた。
◇歴史学者でもある彼は元の資料が「日本」で無いことに気付いた。
◇中国文化である「烏紗帽」「道帽」「辮髪」を消し、日本風の人物に描き変えた。
◇日本の主な宗教が仏教である事を知っていたが適切な絵がなかったため中国の絵を改変。
◆結論◆
〇ピカールの絵は、
日本以外の国も「JAPON」と紹介しているが絵の内容の信頼性は高い。
ただし、それぞれの絵がどの国の描写なのか特定が必要と思われる。
〇モンタヌスの絵は、
意図的に手を加えた可能性がある為、絵の内容の信頼性は低い。
ただし、絵以外の内容は当時日本へ派遣されたイエズス会士からの報告書に
基づいていることを考慮すべき。
■古事記考■2021/07/10
■古事記考■2021/07/10
【古事記で考えた日ユ同祖論】
スサノオの高天原での扱いや数々の奇行に違和感を抱いていました。
もしかしてアマテラスとスサノオは兄弟では無いのではないかと思い、
日ユ同祖論をベースに妄想してみました。
古代イスラエルとインドは文化、宗教、言語もかなり近い関係でした。
現代でもベネ・イスラエル(イスラエルの子)と自称するインド人が海岸線各地に存在しています。国を追われた古代イスラエル人の一部が海洋民のインド人に乗船させてもらい日本に渡来したとしても不思議はない。
イスラエル王国から分裂したユダ王国後期にイザヤという旧約聖書に登場する預言者がいます。いずれユダ王国も滅びると判断したイザヤは息子イザナギと共に東方へ向かう。日本への第一陣としてイザナギが送り込まれた。
南海トラフ地震や津波で壊滅的な被害を受けていた四国阿波へ難なく入植。
海水による塩害の低地ではなく高地の高天原に本拠地を設置。
棚田などクニの基礎が出来始めたころに本来の王族アマテラスらを呼び寄せる。
イザナギが禊をして生まれたアマテラス、ツクヨミ、スサノオは兄弟となっていますが、彼らは渡来した船に同乗していたのであって兄弟ではない。
後に海原を任されるスサノオはインドの海洋民族長。
スサノオと牛頭天王の関係性はインド(天竺)繋がり。
アメノオシホミミは
アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五皇子の一人とされていますが、
同盟締結の人質交換でアマテラスに預けられたスサノオの実子。
猿田彦インド人説はまた別の話。
■幕末日本図絵考■2021/07/04
■幕末日本図絵考■2021/07/04
【幕末日本図絵で考えた巨大寺院の謎】
スイスの政治家エメ・アンベールは幕末の1863年に「特使及び全権公使」
として来日し、翌1864年に徳川幕府と日瑞修好通商条約を調印。
約10ヶ月間の滞日の間に、写真、書籍、浮世絵など多く収集。
帰国後1870年フランスで『幕末日本図絵』(仏: Le Japon Illustré) 出版。
その中に巨大な寺院の絵が描かれている。
絵のサインから作者を調べてみました。
Émile Théodore Therond
エミール・テオドール・セロン
1821-1883年。フランス人。製図工、彫刻家、版画家。
https://philographikon.com/printsjapan.html
によると写真を基に木版画を製作したとあります。
wood engraving by E. Therond
でググれば他の作品も色々確認できます。
該当の絵だけ誇張して作ったとも思えません。
西本願寺(築地本願寺)説が出ていたので調べてみました。
http://yorimichi.club/2018/05/05/tukijihonnganji/
によると関東大震災前の本堂内部の絵図が載ってます。
アンベールの持ち帰った資料の中に該当の写真があれば
証明できるのですが、その有無は不明です。
この巨大寺院は実在したが意図的に廃されたのではないでしょうか。
関連動画
幕末に存在した?描かれた幻の巨大寺院を検証
■奴国考■2021/07/01
■奴国考■2021/07/01
【奴国で考えた言葉の意味-その2-】
前回に続き、奴国についての考察。
魏志倭人伝に「奴国」の記述が2か所あります。
邪馬台国への行程の途中に北部九州に存在するらしい「奴国」と、
邪馬台国連合と思われる周辺国の1つである「奴国」です。
邪馬台国=北部九州説では同じクニとして見ている方が多いです。
では、2つの「奴国」が別のクニだとしたらどうでしょう。
私は邪馬台国=四国阿波説を推していまして
阿波南部にもう1つの「奴国」が存在したと想定しています。
第13代成務天皇紀に阿波南部「長(ナガ)国」の国造が任命されます。
前回考察した「奴河(ナガ)」が基だと思われます。
そして国と川の名前を区別するため「那賀川」に改名。
つまり各文字の本来の意味は
「ナ+カ+カワ」=「川+川+川」
■奴国考■2021/06/27
■奴国考■2021/06/27
【奴国で考えた言葉の意味-その1-】
中国史書に最初に登場する日本の国は
「漢委奴国王」の金印で有名な「奴国」です。
当然「奴」という漢字は当時の中国使者が日本国内で耳にした
「日本の音」に似た「中国の音」の文字をあてたものです。
「奴」はどう発音されていたかというと、
一般的には「na=ナ」で他には「nu」「nui」「nag」など説があります。
ところで、その「ナ」の意味は何だったのでしょうか?
アイヌ語で小さい川の事を「ナイ」と呼んでいました。
現代の地名で頓内、珊内、岩内などはその名残とされています。
国の名前は特徴となる土地の形状、信仰、災害、特産物などが選ばれます。
つまり「奴国」は「川のある国」の意味だったのではないかと考えます。
中国の漢字文化が流入し始めると国の名前と川の名前を区別するため
「奴河」と名付けたのではないでしょうか。
「ナガ」と発音します。黄河(コウガ)などの呉音です。
後に中国側の都合で呉音から漢音に変わると、
交流の多かった日本国内の発音も「ナガ」から「ナカ」に変わっていく。
葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、
「葦が実った水が豊かな国」という意味ではないかと思っています。