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妄想的歴史考察の備忘録(休止中)

■魏志倭人伝考■2021/03/25

魏志倭人伝考■2021/03/25

魏志倭人伝で考えた倭国大乱の背景】

57年、後漢時代に漢委奴国王の金印を下賜された委奴(いぬ)国だったが、異常気象による食料奪い合いの倭国大乱が発生。朝鮮半島南部の領土はバラバラに、九州北部の領土は伊都(いつ)国と奴(ぬ)国と末盧(まつら)国に分裂していた。

交易で鉄器を入手し養蚕で絹を生産。筑紫国と豊国と共に倭国からの奴国独立機運が高まる。鬼道(古神道)による宗教国家連合としての倭国に、ほころびが出来始めていた。倭国の本拠地邪馬台国(四国阿波)は権威はあっても経済力軍事力が低く辺境と化していた。一方、豊かになる北部九州に対し、貧しい肥国と熊襲国が機会をうかがっていた。

肥国は春秋戦国時代の呉難民を保護していたり海外の国とも独自の交流があった。230年、三国志時代の呉兵1万が徐福の子孫を探し拉致徴兵するため倭国周辺にも出没していた。しかし成果が上がらず呉兵の大半は病没したと呉王へ報告されている。実際は倭国へ逃亡していた。肥国は渡来人から得た最新技術を基に鉄鏃を大量生産した。

肥国と熊襲国の一派の連合国家である狗奴国が筑紫国を侵略開始。
奴国側の弓矢は骨鏃や石鏃が主流で鉄鏃は少なく、矢の届く距離や殺傷力の差は圧倒的であった。筑紫国内に燻っていた奴国に対する反乱分子も狗奴国に同調し始める。博多湾岸に設置されていた奴国の都や、倭国出先機関である伊都国も蹂躙されてしまう。末盧国の都(唐津)や、倭国との海上交通港である大分別府もまた狗奴国に抑えられてしまう。

238年、慌てた奴国王は倭国王に泣きつき魏へ使者をたて救援を求めた。
また奴国内を再編成して、山に囲まれ防衛しやすい遠賀川上流(田川郡赤村)に奴国の都を設置。海外との窓口に末盧国の飛び地である宗像、不弥国(福岡県京都郡みやこ)を倭国との窓口の主港に変更。倭国出先機関である伊都国(田川郡糸田)を奴国の都近くに設置。

その頃、熊襲国では肥国派の隼人と、倭国派の投馬国(宮崎県西都市都萬)に分裂していた。

240年、魏の使者が親魏倭王の金印や銅鏡100枚を携え倭国を訪れる。
対馬壱岐、宗像、伊都国、不弥国までは到達したが海上の安全が保てなかったため邪馬台国へは行っていない。邪馬台国までの行程日数は倭人から聞き取っているが魏の使者には位置がはっきりしない。実際の位置は不弥国の東方向なのだが、最初は舟で南方向に漕ぎ出すので倭人は南方向を指し示した。狗奴国が南方向に存在するという情報も不弥国にいた倭人からの伝聞と思われる。

243年、再び倭国王は魏へ使者をたて救援を求めた。
245年、魏の皇帝は黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。朝鮮半島も戦時中で派兵できなかった。

247年、三度倭国王は魏へ使者をたて救援を求めた。その直後に倭国王卑弥呼死去。   
卑弥呼宗女の壹與が倭国王になることで停戦状態となった。倭国が安全になったので魏の使者が派遣される。その時初めて魏の使者が邪馬台国を訪れている。帯方郡から邪馬台国までの直線距離(1万2000里)を正確に計測できたのはこの時である。

その後3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、
5世紀の413年、倭の五王朝貢まで150年近く中国の史書倭国に関する記録はない。

 

 

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