ぱたもんのブログ

妄想的歴史考察の備忘録(休止中)

■古事記考■2021/04/24

古事記考■2021/04/24

古事記以外の古書で考えた新潟県佐渡島の根拠】

私は以前から古事記国生みに記載された佐度島は「韓国の巨済島」であると比定している。

では新潟沖の島はいつから佐渡島と呼ばれるようになったのだろう。
古事記からだけでは立証できないので他の古書を調べてみました。


まず『先代旧事本紀』の国造本紀に「佐渡国造」の記載有り。
国造とは古代日本の行政機構において地方を治める官職の一種で県知事のような者。第13代の成務天皇期に大荒木直がその「佐渡国造」を拝命しています。同時期に北陸地域で最も大きな国である高志(越)の国もヤマト朝廷に帰順し「高志国造」(越前国中部)を拝命。角鹿国造(越前国南西部),三国国造(越前国北東部),能等国造(能登国北部)など他の北陸地域も同時期に任命しているところから「佐渡国造」は新潟県佐渡島でほぼ確定。皇紀と西暦の数え方は違うはずなので明確な年代はわかりませんが350年前後と推定。


次に『日本書紀』に「佐渡嶋」の記載有り。
第29代の欽明天皇5年(544年)、佐渡島北部の御名部海岸に粛慎人(ツングース系)が来着。御名部海岸は「見立海岸」と推定。椎の実(どんぐり)を採取している島東部禹武村の島民が盗難被害発生。犯人は粛慎人。島東南の水津半島海辺の段丘一帯には椎の林が多い。禹武村は「加茂郡水津村」と推定。
次に粛慎人は瀬波河浦に移動。現在でも新潟県北部に瀬波海岸が有る。また当時の越後平野はほとんど海中に沈んでおり、陸地は湾曲して海が陸地の中に入り込んでいた。
下船した粛慎人は近くの水を飲むが次々に倒れ、逃げ込んだ岩穴で息絶えている。おそらくヒ素を多く含んだ水を飲んだのではないでしょうか。岩穴は新潟市西蒲区の「七面大明神教化の岩穴」と推定。この辺りの地下水はヒ素含有量が高い。


以上の事から『先代旧事本紀』『日本書紀』の記載内容は、共に新潟県佐渡島の事であると判断します。ただし大島や沖ノ島のように各地で複数存在する可能性もある。佐度とは「海を渡る」のを「佐(たす)ける」という意。つまり中継地点。他にも佐渡と呼ばれていた島が存在したとしても不思議ではない。
今回は歯切れが悪い結果になりましたがこの辺りで。

 

 

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