ぱたもんのブログ

妄想的歴史考察の備忘録(休止中)

■蹴鞠文化考■2021/08/21

■蹴鞠文化考■2021/08/21

【蹴鞠文化で考えた日本サッカーの未来】


オリンピック関連ということで日本古来のスポーツについて調べてみました。
伝統的な日本の競技といえば相撲、柔道、剣道、空手ですが今回は「蹴鞠(けまり)」。

蹴鞠は中国より日本へ渡来したとされています。

 

中国では「蹴鞠(しゅうきく)」と呼ばれ、最初は雨乞いの儀式に用いられたようです。司馬遷の「史記」によると、紀元前300年代の斉という国の首府臨淄(りんし)で蹴鞠が行われた記録があります。2004年、国際サッカー連盟(FIFA)は臨淄をサッカー発祥の地と認定しています。 

 

 後漢の李尤が著した「鞠城銘」に面白い記述があります。特に④⑤必見。
「園鞠方墻、仿像陰陽。法月衡対、二六相当。建長立平、其列有常。
不以親疏、不有阿私。端心平意、莫怨其非。鞠政由然、況乎執機。」
①鞠が円形で競技場が壁に囲まれた方形であり、陰陽学の説く天円地方の宇宙観と合致する。
②蹴鞠をする者は2チームに分けて競技し、1チームが6人からなる。12人は一年の12ヶ月を表す。
③各チームに隊長がいて、ゲームの際には裁判がいた。共通のルールに則ってゲームが行われた。
④裁判は交際の疎密に左右されず、私心を捨てることが求められる。
⑤選手は平常心を保ち、負けても相手を怨まないことが求められる。

 

 唐時代にはルールも多様化し中国の娯楽文化として定着していきます。
元(モンゴル帝国)時代には欧州にも伝わります。
明時代に仕事をせず蹴鞠三昧の役人が増えたため禁止令が出ます。
清時代には女性のみの娯楽だったのですが、満州人が気に入らなかったらしく女性にも禁止令が出され、完全に蹴鞠文化が無くなります。
もし禁止令がなければ現代中国はサッカー大国として存在していたかもしれません。

 

 

話を日本に戻します。
蹴鞠の渡来時期は不明ですが一番古い記録は、7世紀半ば、飛鳥の法興寺で開かれた蹴鞠大会が最初とされています。中大兄皇子藤原鎌足と蹴鞠を機に親密となり「大化の改新」に繋がったのは有名な話。

 

 平安時代には宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになります。貴族達は自身の屋敷に専用の練習場を設け練習に明け暮れたらしい。清少納言も「枕草子」で「蹴鞠は面白い」と謳っている。

 平安後期の藤原成通は希代の名人と言われ後世でも「蹴聖」と呼ばれている。清水の舞台の欄干の上を鞠を蹴りながら何度も往復したとか、従者たちを並ばせてその頭や肩の上でリフティングしたとか、逸話も多く残っている。蹴鞠の掛け声「アリ」「ヤウ」「オウ」は成通の夢に出てきた鞠の精霊名が由来らしい。

 

 また同時代の藤原頼輔も関白九条兼実に「無双達者」と賞賛された達人で、その孫に当たる難波宗長と飛鳥井雅経は、それぞれ「流派」を打ち立てて「蹴鞠道」が確立していきます。難波流は後に衰退したが、飛鳥井流はその後受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり「サッカー神社」とも呼ばれています。

 

 一方、賀茂神社の神主など昇殿を許されていない者で蹴鞠を教える流派「社家流」が現われる。難波流が絶えると、蹴鞠は飛鳥井家の独占となったが、賀茂系の松下氏などは私的に教えていた。これを受けて飛鳥井家は将軍家に訴えて松下氏の教授を禁止する令を何度も出させて17世紀初頭まで争いは続いた。下鴨神社では現在でも毎年1月に「蹴鞠はじめ」が行われている。日本サッカー協会のシンボルマークのモチーフでもある「八咫烏」は下鴨神社の祭神「賀茂建角身命」の化身とされる。

 

 蹴鞠は集団でリフティングしているだけの様に見えますが実は細かい作法やルールが存在します。フォームの点でいえば「右脚で蹴る」「膝を曲げずに蹴る」「上半身は動かさない」。精神的な点でいえば「のどかに蹴る」。観客にも配慮した見せる蹴鞠を追求したのが「蹴鞠道」なのでしょう。

 

 ファール数の少ないサッカー日本チーム。
試合後の会場を掃除する日本人観客。
現代にも「蹴鞠道」の心得が残っているのかもしれません。

 

 

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