ぱたもんのブログ

妄想的歴史考察の備忘録(休止中)

■行基図考■2021/09/01

行基図考■2021/09/01

行基図で考えた古事記国生み神話】

 

行基図(ぎょうきず)とは、古式の日本地図。
奈良時代の僧侶「行基」が各地を巡りながら作ったとする説が有力。
江戸時代初期まで、この行基図が正式な日本地図として扱われていた。

 

最古の「行基図」は延暦24年(805)に下鴨神社に納められたらしい。

 

現存しかつ最古のものは鎌倉時代の嘉元3年(1305)の銘がある京都仁和寺所蔵の「仁和寺蔵日本図」だが西日本が欠けている。また同時期に他の地図から転写されたと推定されている称名寺所蔵(神奈川県金沢文庫保管)の「金沢文庫蔵日本図」は東日本が欠けている。両図は図式が全く違うため整合は困難である。

 

東日本および西日本が揃っているもので最古のものは広島県立歴史博物館所蔵の14世紀半ば作と見られる「日本扶桑国之図」(にほんふそうこくのず)である。

 

「拾芥抄」は洞院公賢(1291-1360)の撰で、曾孫実煕の増補と伝えるが慶長(1596-1615)版以前の写本には日本図が収められていない。これ以降に収められた図が「拾芥抄の大日本国図」。左上部に「大日本国図は行基菩薩の図する所なり。この土の形、独鈷のごとし。よって仏法滋く盛んなり。その形、宝形のごとし。ゆえに金銀胴鉄等の珍宝あり。五穀豊稔なり……」と書かれている。

 

戦国時代の弘治3年(1557)に描かれたとされる「南瞻部洲大日本国正統図」(伝香寺旧蔵、現唐招提寺所蔵)は、日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。安土桃山時代の作とされる福井県小浜市発心寺の屏風絵などがその代表作である。

 

江戸時代に入ると、印刷技術の発達により大量印刷される。その殆どが「拾芥抄」あるいは「南瞻部洲大日本国正統図」の系統をひく地図だが、交通の発達で、より実際の地形に修正されるようになった。慶安、承応、明暦年間に刊行された行基図が現在も残されている。

 

今回、私が探しているのは古事記国生みの「隠岐之三子島」。
四国と九州の間に存在したのでないかとの疑問に応えるべく調べてみました。
様々な「行基図」を探していたところ気になる箇所があったので記事に残しておきます。

 

行基図考
■様々な行基図をまとめています。私は一部のみ確認。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/honda5/ron18.htm

 

●青洲文庫旧蔵「南贍部洲大日本国正統図」(寛永頃/1624-1645)
■豊後、長門、伊予の海上中間に「簑嶋」記載有。
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/nansembushu/page/home

 

南波松太郎旧蔵「行基菩薩説大日本国図」(承応頃/1652-1655)
■日向沖に「三のしま」記載有。
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365287

 

●村上勘兵衛刊行「拾芥抄」(1656)
豊前と豊後沖に「三嶋」記載有。

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村上勘兵衛刊行「拾芥抄」(1656)

 

●鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)刊行「南贍部洲大日本国正統図」(1844)
■豊後と日向沖に、3つの島記載有。(島名不明)

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鶴峯戊申刊行「南贍部洲大日本国正統図」(1844)

 

※注
伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は文政4年(1821)に完成しているが、あまりに精密であったため幕府内で秘匿案件とされた。開国後の文久元年(1861)、イギリス海軍が日本沿岸を勝手に測量し始めた。伊能図の写しを渡すことと引き換えに引き下がったが、それを元にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行。日本に逆輸入され秘匿する意味がなくなる。幕府からも伊能図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、ようやく一般の目に触れることになる。

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