ぱたもんのブログ

妄想的歴史考察の備忘録(休止中)

■沖ノ島考■2021/10/24

沖ノ島考■2021/10/24

沖ノ島で考えた連絡手段】

 

福岡県宗像市沖の「沖ノ島」では複数の「銅鏡」が発見されています。
祭祀として用いられたとされていますが疑問に思っています。
もっと実用的な使い方があったのではないか。

 

宗像と対馬島のちょうど中間地点に存在する「沖ノ島」。
私は「銅鏡」による「光通信」の中継地だったと考えています。

 

騎馬民族は「狼煙」による連絡手段が最適ですが、海洋民族が船上で火を焚くのは危険です。舟と舟、舟と島、島と島での連絡手段として「光通信」が有効。

 

関連動画
R3世界遺産宗像・沖ノ島公開講座#3 岩本 崇【本編】「沖ノ島の鏡」(字幕付き)
https://www.youtube.com/watch?v=vMBDMIsbuhg

 

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■行基図考■2021/09/01

行基図考■2021/09/01

行基図で考えた古事記国生み神話】

 

行基図(ぎょうきず)とは、古式の日本地図。
奈良時代の僧侶「行基」が各地を巡りながら作ったとする説が有力。
江戸時代初期まで、この行基図が正式な日本地図として扱われていた。

 

最古の「行基図」は延暦24年(805)に下鴨神社に納められたらしい。

 

現存しかつ最古のものは鎌倉時代の嘉元3年(1305)の銘がある京都仁和寺所蔵の「仁和寺蔵日本図」だが西日本が欠けている。また同時期に他の地図から転写されたと推定されている称名寺所蔵(神奈川県金沢文庫保管)の「金沢文庫蔵日本図」は東日本が欠けている。両図は図式が全く違うため整合は困難である。

 

東日本および西日本が揃っているもので最古のものは広島県立歴史博物館所蔵の14世紀半ば作と見られる「日本扶桑国之図」(にほんふそうこくのず)である。

 

「拾芥抄」は洞院公賢(1291-1360)の撰で、曾孫実煕の増補と伝えるが慶長(1596-1615)版以前の写本には日本図が収められていない。これ以降に収められた図が「拾芥抄の大日本国図」。左上部に「大日本国図は行基菩薩の図する所なり。この土の形、独鈷のごとし。よって仏法滋く盛んなり。その形、宝形のごとし。ゆえに金銀胴鉄等の珍宝あり。五穀豊稔なり……」と書かれている。

 

戦国時代の弘治3年(1557)に描かれたとされる「南瞻部洲大日本国正統図」(伝香寺旧蔵、現唐招提寺所蔵)は、日本地図の周辺の外枠に郡名などの情報が記載されている。安土桃山時代の作とされる福井県小浜市発心寺の屏風絵などがその代表作である。

 

江戸時代に入ると、印刷技術の発達により大量印刷される。その殆どが「拾芥抄」あるいは「南瞻部洲大日本国正統図」の系統をひく地図だが、交通の発達で、より実際の地形に修正されるようになった。慶安、承応、明暦年間に刊行された行基図が現在も残されている。

 

今回、私が探しているのは古事記国生みの「隠岐之三子島」。
四国と九州の間に存在したのでないかとの疑問に応えるべく調べてみました。
様々な「行基図」を探していたところ気になる箇所があったので記事に残しておきます。

 

行基図考
■様々な行基図をまとめています。私は一部のみ確認。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/honda5/ron18.htm

 

●青洲文庫旧蔵「南贍部洲大日本国正統図」(寛永頃/1624-1645)
■豊後、長門、伊予の海上中間に「簑嶋」記載有。
https://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/nansembushu/page/home

 

南波松太郎旧蔵「行基菩薩説大日本国図」(承応頃/1652-1655)
■日向沖に「三のしま」記載有。
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365287

 

●村上勘兵衛刊行「拾芥抄」(1656)
豊前と豊後沖に「三嶋」記載有。

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村上勘兵衛刊行「拾芥抄」(1656)

 

●鶴峯戊申(つるみねしげのぶ)刊行「南贍部洲大日本国正統図」(1844)
■豊後と日向沖に、3つの島記載有。(島名不明)

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鶴峯戊申刊行「南贍部洲大日本国正統図」(1844)

 

※注
伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は文政4年(1821)に完成しているが、あまりに精密であったため幕府内で秘匿案件とされた。開国後の文久元年(1861)、イギリス海軍が日本沿岸を勝手に測量し始めた。伊能図の写しを渡すことと引き換えに引き下がったが、それを元にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行。日本に逆輸入され秘匿する意味がなくなる。幕府からも伊能図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、ようやく一般の目に触れることになる。

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■蹴鞠文化考■2021/08/21

■蹴鞠文化考■2021/08/21

【蹴鞠文化で考えた日本サッカーの未来】


オリンピック関連ということで日本古来のスポーツについて調べてみました。
伝統的な日本の競技といえば相撲、柔道、剣道、空手ですが今回は「蹴鞠(けまり)」。

蹴鞠は中国より日本へ渡来したとされています。

 

中国では「蹴鞠(しゅうきく)」と呼ばれ、最初は雨乞いの儀式に用いられたようです。司馬遷の「史記」によると、紀元前300年代の斉という国の首府臨淄(りんし)で蹴鞠が行われた記録があります。2004年、国際サッカー連盟(FIFA)は臨淄をサッカー発祥の地と認定しています。 

 

 後漢の李尤が著した「鞠城銘」に面白い記述があります。特に④⑤必見。
「園鞠方墻、仿像陰陽。法月衡対、二六相当。建長立平、其列有常。
不以親疏、不有阿私。端心平意、莫怨其非。鞠政由然、況乎執機。」
①鞠が円形で競技場が壁に囲まれた方形であり、陰陽学の説く天円地方の宇宙観と合致する。
②蹴鞠をする者は2チームに分けて競技し、1チームが6人からなる。12人は一年の12ヶ月を表す。
③各チームに隊長がいて、ゲームの際には裁判がいた。共通のルールに則ってゲームが行われた。
④裁判は交際の疎密に左右されず、私心を捨てることが求められる。
⑤選手は平常心を保ち、負けても相手を怨まないことが求められる。

 

 唐時代にはルールも多様化し中国の娯楽文化として定着していきます。
元(モンゴル帝国)時代には欧州にも伝わります。
明時代に仕事をせず蹴鞠三昧の役人が増えたため禁止令が出ます。
清時代には女性のみの娯楽だったのですが、満州人が気に入らなかったらしく女性にも禁止令が出され、完全に蹴鞠文化が無くなります。
もし禁止令がなければ現代中国はサッカー大国として存在していたかもしれません。

 

 

話を日本に戻します。
蹴鞠の渡来時期は不明ですが一番古い記録は、7世紀半ば、飛鳥の法興寺で開かれた蹴鞠大会が最初とされています。中大兄皇子藤原鎌足と蹴鞠を機に親密となり「大化の改新」に繋がったのは有名な話。

 

 平安時代には宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになります。貴族達は自身の屋敷に専用の練習場を設け練習に明け暮れたらしい。清少納言も「枕草子」で「蹴鞠は面白い」と謳っている。

 平安後期の藤原成通は希代の名人と言われ後世でも「蹴聖」と呼ばれている。清水の舞台の欄干の上を鞠を蹴りながら何度も往復したとか、従者たちを並ばせてその頭や肩の上でリフティングしたとか、逸話も多く残っている。蹴鞠の掛け声「アリ」「ヤウ」「オウ」は成通の夢に出てきた鞠の精霊名が由来らしい。

 

 また同時代の藤原頼輔も関白九条兼実に「無双達者」と賞賛された達人で、その孫に当たる難波宗長と飛鳥井雅経は、それぞれ「流派」を打ち立てて「蹴鞠道」が確立していきます。難波流は後に衰退したが、飛鳥井流はその後受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり「サッカー神社」とも呼ばれています。

 

 一方、賀茂神社の神主など昇殿を許されていない者で蹴鞠を教える流派「社家流」が現われる。難波流が絶えると、蹴鞠は飛鳥井家の独占となったが、賀茂系の松下氏などは私的に教えていた。これを受けて飛鳥井家は将軍家に訴えて松下氏の教授を禁止する令を何度も出させて17世紀初頭まで争いは続いた。下鴨神社では現在でも毎年1月に「蹴鞠はじめ」が行われている。日本サッカー協会のシンボルマークのモチーフでもある「八咫烏」は下鴨神社の祭神「賀茂建角身命」の化身とされる。

 

 蹴鞠は集団でリフティングしているだけの様に見えますが実は細かい作法やルールが存在します。フォームの点でいえば「右脚で蹴る」「膝を曲げずに蹴る」「上半身は動かさない」。精神的な点でいえば「のどかに蹴る」。観客にも配慮した見せる蹴鞠を追求したのが「蹴鞠道」なのでしょう。

 

 ファール数の少ないサッカー日本チーム。
試合後の会場を掃除する日本人観客。
現代にも「蹴鞠道」の心得が残っているのかもしれません。

 

 

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■海の道むなかた館考■2021/08/17

■海の道むなかた館考■2021/08/17

動画を聴きながら資料を見て学ぶ講座

 

【令和3年度 海の道むなかた館 西谷正館長講座 第1回:帯方郡
動画
https://www.youtube.com/watch?v=GxVy28hIj6M
講座資料(動画内説明のページ数と異なる箇所有)
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/page/sp/munakata_course/r3/pdf/vol01/course.pdf
スライド資料
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/page/sp/munakata_course/r3/pdf/vol01/course_slide.pdf

 

【令和3年度 海の道むなかた館 西谷正館長講座 第2回:韓国】
動画
https://www.youtube.com/watch?v=9Ekjo63YQL4
講座資料
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/page/sp/munakata_course/r3/pdf/vol02/course.pdf
スライド資料
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/page/sp/munakata_course/r3/pdf/vol02/course_slide.pdf

 

【令和3年度 海の道むなかた館 西谷正館長講座 第3回:狗邪韓国】
動画
https://www.youtube.com/watch?v=qfz28aWj-k8
講座資料
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/page/sp/munakata_course/r3/pdf/vol03/course.pdf
スライド資料
https://munahaku.jp/wp-content/themes/munahaku/page/sp/munakata_course/r3/pdf/vol03/course_slide.pdf

 

 

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■神社供物考■2021/08/16

■神社供物考■2021/08/16

【神社供物で考えたヤマト王権設立の因子】


神社の供物を見ていて気になったので調べてみました。

神様への供物のことを「神饌(しんせん)」といい、海、川、山、野でとれる季節の旬のものをお供えします。地域や時代によって違いはありますが最も大切な「神饌」は米です。他には、酒、餅、魚、野菜、果物、塩、水などがお供えされます

 

魚は生モノなので内臓や血を抜き「塩」をまぶして外気にあて乾燥して長持ちさせます。穀物以外の保存食として「干物」も古来から珍重されてきました。「塩」が作られる場所には「干物」の文化も育っていきます。

縄文時代には貝の干物が縄文土器から発見。
奈良時代には各地から献上品や税として宮廷へ納められていた。
平安時代には「からもの」という名で貴族の酒の肴となっていた。
江戸時代には干物も庶民に広まったが贅沢品だった。

 

では「塩」についてはどうだったのでしょうか。

日本は岩塩や塩湖などの塩資源に恵まれてなかったので海水から塩を作っていました。しかし雨が多く湿度も高いので天日だけで塩になりません。縄文や弥生時代には専用の土器で煮詰めて塩の結晶を作っていたようです。海水の塩分濃度は3%なので長時間熱する必要があり苦労したことでしょう。生産量も少なかったはず。

奈良時代には塩浜という一定の場所に海水を何度も流し込み高濃度の塩水を作ることで効率化が図られました。

古代日本の海岸線では全国的に製塩されていましたが、やがて瀬戸内海沿岸に集約していき、江戸時代には全国生産の9割を占めることになります。日照時間も長く、高品質で大量生産に最も適していたからです。

 

瀬戸内海沿岸の「吉備国」がヤマト王権設立を主導した原動力として、この「塩」も重要なファクターだったと考えます。

 

 

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■古事記考■2021/08/08

古事記考■2021/08/08

古事記で考えた九州肥国の悲劇】

令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。飛鳥時代から明治期初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。明治期に廃藩置県され現在の都道府県に区分される。

この令制国名で気になる点があります。

 

今から1400年前、7世紀ころ福井から新潟にかけては「越の国」と言われていました。
そして7世紀後半に都(飛鳥)に近いほうから、越前・越中・越後に分けられました。

同様に岡山から広島に存在した「吉備の国」も、
東部が備前、中央部が備中、西部が備後と三つに分けられました。

他にも、陸前+陸中+陸奥、羽前+羽後、上総+下総など元々大きなクニが分割されている。
これらのクニは隣り合っており地続きです。

しかし、九州の肥前+肥後は地続きではなく有明海を挟んで「飛び地」なのである。
文化圏説や、有明干潟(ひがた)由来の「干の国」説などありますが釈然としません。

 

そこで目にしたのが方言区分。
九州の方言は「豊日方言」「肥筑方言」「薩隅方言」の3つに分けられる。
個人的にも、福岡県内で北九州と博多の方言の違いに驚いた経験があります。
逆に熊本と博多の方言がより近いとも感じました。
九州出身の友人数人も「鹿児島の言葉は全く理解できん」とのこと。

古事記の国生み神話では九州に存在する4つの国
筑紫国」「豊国」「肥国」「熊曽国」の記述があります。

何が言いたいかというと、
古事記国生み「4つの国」は元々「3つの国」だったのではないか。
「豊国(豊日方言)」「肥国(肥筑方言)」「熊曽国(薩隅方言)」が存在し、
後に「筑紫国」に侵略され分国化したのではないのか。
「肥国」が肥前+肥後に分割され「飛び地」になった最大の要因なのかもしれない。

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方言区分

 

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■江戸時代考■2021/08/02

■江戸時代考■2021/08/02

【江戸時代で考えた象や黒人が闊歩する祭】

今回もNKさん動画で採り上げられていた画像について考察してみました。

 

絵を見て思ったのは「通信使」。
江戸時代は鎖国中ですが朝鮮と琉球は正式な国交のある「通信国」として交流していました。異国の衣装を纏い行列で街道を進む様は、庶民にとっては珍しい見世物であり、幕府の威信を示す狙いもあった。ちなみに明や清、ポルトガル、オランダは「貿易国」扱い。

 

幕末の時代、開国を進める幕府は、庶民が外国人への恐怖を減らすための手段として、この「通信使」政策を利用したのではないでしょうか。ただ日本全国を行脚させるには危険な情勢だと判断し、祭の一環として極一部地域でのみ披露したと考えます。

 

イギリス領インドのガネーシャベンガルトラ

黒人とエビと言えば「カメルーン」。
エビの多い地域でポルトガル人が名付けたcamarão(小エビ)が語源らしい。

江戸幕府は、開国を望む複数の諸外国にも協力を頼み、提供されたのがインド人、カメルーン人、タタール人ら白人に侵略された人達だった。

 

関連動画
白い像が練り歩き 黒人の一団が海老を担ぐ 驚愕の江戸の祭!

www.youtube.com

 

 

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