ぱたもんのブログ

妄想的歴史考察の備忘録(休止中)

■魏志倭人伝考■2021/04/06

魏志倭人伝考■2021/04/06

魏志倭人伝で考えた末盧国の謎に迫る】

「又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居
 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺皆沉没取之」

この文を各ブロックに分け細かく説明していきます。

・海を渡る…方角の記載無し。
・1000余里…距離は直線距離。
・盧…ヨシまたはアシとも読む。イネ科ヨシ属の多年草
   河川及び湖沼の水際に生える。条件がよければ一年に約5m伸びる。
   万葉集では、蘆、葦、安之、阿之という書き方で50首詠まれている。
・4000余戸…一大国(3000余戸)より少し多い人口。對海国(1000余戸)。
・山海に沿って住む…住む場所が狭く限りがある。
・草木が盛んに茂り歩くと前の人が(草木に隠されて)見えない。
・魚やアワビを捕ることを好む。
・水の深浅にかかわらず潜って捕っている。
・官の名前がない【重要】…他国の紹介には必ず有る。

以上の事から推理すると、

◇末盧国は漁民のみの国のようである。
◇海際の土地に住んでいて田地の描写が無い。
◇對海国と同じような住環境だが人口は4倍。しかし官は居ない。
◇陸上を歩いた場所は草木に覆われていて街道ではなかった。

●ここから妄想込みの独自解釈です。

末盧国の領土は、玄界灘に存在した漁民集落全体だった。小さな島や離れた飛び地も含むかなり広範囲の海域と推定する。広すぎて官による徴税や監察も行き届かない。つまり各集落リーダーに自治権を委ねていた。各集落間で揉め事が発生した場合に仲裁したのが宗像大社宮司と考える。宗像市田島の辺津宮(総社)は「田島さま」と地元では呼ばれている。末盧国の比定地として多く名前が挙がる佐賀県唐津市(旧肥前国松浦郡呼子)には宗像三女神を祀る田島神社が鎮座する。また徴税しない代わりに海上警備、海外交易、外交官運搬などを義務とした。その命令書も元締めである宗像大社が発行していたのではないか。

行程記述に戻ります。
一大国から海で末盧国に向かうのですが、まず南の馬渡島の番所の辻(標高238m)を目指す。東松浦半島沿いに東に向かう。漁民が山海に沿って住む描写はこの辺りの様子だと思います。このルートで本来は海外窓口である伊都国(糸島市)に無事辿り着くはずですが今回はスルーする。海岸沿いに志賀島、新宮町、そして宗像の西側の福津市勝浦に寄港します。勝浦はかつて松浦(万津浦)と言われていた。一大国から勝浦までの直線距離1000余里を測定する。

次に末盧国から伊都国へ向かうのだが方向がまるで違う。前述した伊都国(糸島市)は南西方向だが「東南陸行五百里」の伊都国ではない。つまり今までの伊都国(糸島市)は魏の使者を出迎える状態にない。戦時中の可能性が高い。そこで新設の伊都国に向かうべく進んだ道の描写が「草木に覆われていて」まともな道ではなかったということである。街道を歩くと危険だったのではないか。


関連動画
いせきんぐ宗像歴史講座2018その6 古代のハイウェイ海の道は宗像が玄関(スライドショー版)
https://www.youtube.com/watch?v=lM-w9RzWKe0

www.youtube.com

 

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■魏志倭人伝考■2021/03/29

魏志倭人伝考■2021/03/29

魏志倭人伝で考えた邪馬台国以外の首脳陣】

「至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離」
「至一大國 官亦日卑狗  副日卑奴母離」
「到伊都國 官日爾支   副日泄謨觚柄渠觚」
「至奴国  官日兕馬觚  副日卑奴母離」
「至不彌國 官日多模   副日卑奴母離」
「至投馬國 官日彌彌   副日彌彌那利」

それぞれの言葉は何を意味するのでしょうか。独自に推理します。

①卑狗
「ひこ」と発音し意味は、彦=男性首長。

②卑奴母離
「ひなもり」と発音し意味は、鄙守=辺境防衛隊長。

③爾支
「ねき」と発音し意味は、禰宜(ねぎ)=神官長。

④彌彌
「みみ」と発音し意味は、御巫(みかなぎ)=神事に奉仕した女官長

⑤彌彌那利
「みみなり」と発音し意味は、御巫内裏(みかなぎだいり)=女官長補佐。

⑥多模
「たも」と発音し意味は、天文(てんもん)=後の陰陽頭
渡来人が多く定住している不彌国名の意味も「巫女不在」だと推定。
初期の道教が伝来し後に陰陽師が道術の要素を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた。
自然災害の多い日本において天文観測は異変を察知する重要な役割であった。

⑦兕馬觚
「しまこ」と発音し意味は、奴国の軍事長官。
牛馬は居ないと記載されているし骨も出土していないので名ばかりの称号。

⑧泄謨觚柄渠觚
「せもこへぎこ」と発音し意味は、運河および古墳土木作業長官。
石組みや水漏れ防止などかなり高度な技術力が必要である。


⑦⑧官名の「觚」について考察します。
殷や周の時代に酒を温めて注ぐ3本足の青銅器を爵と言う。酒を受ける縦に長い杯を「觚」と言う。爵は古代中国の諸侯またはその臣の身分を表す称号でもある。公爵や伯爵など。倭国ではその称号を「觚」で表していた。かつて九州に存在した小国が殷周へ朝貢し、返礼に下賜された「觚」の実物を目の当りにしたら、魏の使者も驚き喜んだのではないでしょうか。私は実際に確認できたと思っています。

 

 

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■魏志倭人伝考■2021/03/28

魏志倭人伝考■2021/03/28

魏志倭人伝で考えた鏡に映った狗奴国】

筑紫島(九州)内には主要な国が4つ存在した。
古事記の国生みで書かれている筑紫国、豊国、肥国、熊襲国である。
後に土蜘蛛と呼ばれるような従わない小さな豪族も存在していたであろうが
倭国に対抗できる大きな国は他に存在していなかった。

では狗奴国とはどんな国なのでしょうか?
既に存在している国ならそのままの名前で呼ばれるはず。
新しく出来た国だとしたらどうでしょう。しかも倭国に敵対できるほどの大国です。
私の推理では、肥国と熊襲国の一部の連合国家ではないかと考えています。後世でも九州中南部の反乱は多発しています。また筑紫国内に燻っていた奴国に対する反乱分子も狗奴国に同調したのではないかと思います。

次に国名について考察します。
狗奴国王は自ら名乗ったのでしょうか?私は否定します。
倭国側もしくは魏の使者が勝手にそう呼び始めたのだと思います。
現代中国でも「狗」は犬の習性を品格のない行為に例えて人を侮蔑する際によく使われます。
つまり奴国に敵対する国という意味ではないかと考えます。

狗奴国の官は狗古智卑狗で「狗」が2文字も使われているところから見ても
よほど敵として憎むべき対象だったのではないかと思わせます。
当時の九州でも優良な水田地帯だった菊池平野を統括する「キクチヒコ」。

最後に狗奴国王の卑弥弓呼についてですが、卑弥呼に弓引く者とも思いましたが
素直に「ヒミクコ」と発音し意味は、肥国の正式な弓得意の国王。

 

 

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■魏志倭人伝考■2021/03/27

魏志倭人伝考■2021/03/27

魏志倭人伝で考えた邪馬台国内閣首脳陣】


魏志倭人伝は、当時の中国人による中国人向けの史書です。
倭人を紹介する際は中国人に理解しやすい言葉を用い書いていますがなかには
当時の中国人にさえ理解できない言葉もあります。それが邪馬台国の官の名前です。

「官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮」

当時の倭国は、殷や周時代の風習や言葉も取り入れながら倭国独自の発音で会話していた。
それを聞き取った魏の使者が当時の漢音で変換したのが上記の官名である。
それぞれの言葉は何を意味するのでしょうか。独自に推理します。

①伊支馬
「いきま」と発音し意味は、倭(い)国の軍事長官。

②彌馬升
「みます」と発音し意味は、御孫(みま)裔(すえ)=倭国王の一族筆頭。

③彌馬獲支
「みまわき」と発音し意味は、御孫別(みまわき)=倭国王の従属筆頭。

④奴佳鞮
「なかた」と発音し意味は、奴方=奴集落の地方文官長。


興味深いのが四国阿波に集中して似たような地名が残っている事です。
徳島県阿波市市場町美馬市美馬市脇町
④名方郡は古代の阿波国にあった郡である。現徳島市周辺。

 

 

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■魏志倭人伝考■2021/03/25

魏志倭人伝考■2021/03/25

魏志倭人伝で考えた倭国大乱の背景】

57年、後漢時代に漢委奴国王の金印を下賜された委奴(いぬ)国だったが、異常気象による食料奪い合いの倭国大乱が発生。朝鮮半島南部の領土はバラバラに、九州北部の領土は伊都(いつ)国と奴(ぬ)国と末盧(まつら)国に分裂していた。

交易で鉄器を入手し養蚕で絹を生産。筑紫国と豊国と共に倭国からの奴国独立機運が高まる。鬼道(古神道)による宗教国家連合としての倭国に、ほころびが出来始めていた。倭国の本拠地邪馬台国(四国阿波)は権威はあっても経済力軍事力が低く辺境と化していた。一方、豊かになる北部九州に対し、貧しい肥国と熊襲国が機会をうかがっていた。

肥国は春秋戦国時代の呉難民を保護していたり海外の国とも独自の交流があった。230年、三国志時代の呉兵1万が徐福の子孫を探し拉致徴兵するため倭国周辺にも出没していた。しかし成果が上がらず呉兵の大半は病没したと呉王へ報告されている。実際は倭国へ逃亡していた。肥国は渡来人から得た最新技術を基に鉄鏃を大量生産した。

肥国と熊襲国の一派の連合国家である狗奴国が筑紫国を侵略開始。
奴国側の弓矢は骨鏃や石鏃が主流で鉄鏃は少なく、矢の届く距離や殺傷力の差は圧倒的であった。筑紫国内に燻っていた奴国に対する反乱分子も狗奴国に同調し始める。博多湾岸に設置されていた奴国の都や、倭国出先機関である伊都国も蹂躙されてしまう。末盧国の都(唐津)や、倭国との海上交通港である大分別府もまた狗奴国に抑えられてしまう。

238年、慌てた奴国王は倭国王に泣きつき魏へ使者をたて救援を求めた。
また奴国内を再編成して、山に囲まれ防衛しやすい遠賀川上流(田川郡赤村)に奴国の都を設置。海外との窓口に末盧国の飛び地である宗像、不弥国(福岡県京都郡みやこ)を倭国との窓口の主港に変更。倭国出先機関である伊都国(田川郡糸田)を奴国の都近くに設置。

その頃、熊襲国では肥国派の隼人と、倭国派の投馬国(宮崎県西都市都萬)に分裂していた。

240年、魏の使者が親魏倭王の金印や銅鏡100枚を携え倭国を訪れる。
対馬壱岐、宗像、伊都国、不弥国までは到達したが海上の安全が保てなかったため邪馬台国へは行っていない。邪馬台国までの行程日数は倭人から聞き取っているが魏の使者には位置がはっきりしない。実際の位置は不弥国の東方向なのだが、最初は舟で南方向に漕ぎ出すので倭人は南方向を指し示した。狗奴国が南方向に存在するという情報も不弥国にいた倭人からの伝聞と思われる。

243年、再び倭国王は魏へ使者をたて救援を求めた。
245年、魏の皇帝は黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。朝鮮半島も戦時中で派兵できなかった。

247年、三度倭国王は魏へ使者をたて救援を求めた。その直後に倭国王卑弥呼死去。   
卑弥呼宗女の壹與が倭国王になることで停戦状態となった。倭国が安全になったので魏の使者が派遣される。その時初めて魏の使者が邪馬台国を訪れている。帯方郡から邪馬台国までの直線距離(1万2000里)を正確に計測できたのはこの時である。

その後3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、
5世紀の413年、倭の五王朝貢まで150年近く中国の史書倭国に関する記録はない。

 

 

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